三宅島 元気ハツラツぅ?

150年前の大先輩? -その2-

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 こうした小次郎の功績がとりもつ縁となって、1978年に三宅村と小金井市は友好都市となった。
 噴火による島民避難の際には、小金井の友好協会を中心に島の人々を支援する活動が行われた。
 東は新宿から南は川崎大師まで縄張りとして取り仕切った大親分さんも、自分の行動が120年後にこうした実を実らせるとは予想だにしなかっただろう。

(井戸のほとりにある友好の碑の碑文は、小次郎の(曾?)孫に当る関綾二郎氏(初代小金井市市長)の書)



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                               <小金井神社>

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小金井村の鎮守である小金井神社には、小次郎が明治13年に奉納したという狛犬がある。(台座には小次郎の本名で「願主 関小治郎」と記されている。)













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 『小金井小次郎伝』(1975.4.2  皆木繁宏 小金井新聞社)によれば台座には、子分198名の名が刻まれているという。とはいっても、この著作のなかでも「現在は相当と欠損があり、判読できないものがある」と書かれている。それからさらに35年の月日が流れており、鳥居の正面左側の狛犬の台座の刻銘は、ほぼ全面的に脱落、右側(写真)も剥がれ落ちる寸前の状況で、小次郎はんも子分はんたちも天空あるいは地の底からお嘆きかも・・・・?






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 島の水問題に貢献した大侠客の墓所は、はけの裾、神社から北西に200mほどの西念寺にある。一族の眠る場所で、彼の墓に隣接して、山岡鉄舟の筆になる追悼碑がそびえ立っており、一目で見つけられるように?なっている。


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  『小金井小次郎伝』(前出)によれば、彼は臨終に際して、子分たちに「この道は俺一代」限りと言い残している。
 確かに彼の子孫は、跡目を継がず、普通の人として正道を歩み、やがて地域の政治的リーダーにもなっていく。しかし、彼の残した小金井一家は肥大化して、子分たちは、地域ごとに分割統治を図り、合従連衡を繰りかえしながら現在まで続いている。彼の墓の外柵には、各局が競って番組を持たせた有名な女性占い師Hとの関係が数年前にマスコミを賑わせた人物もふくめ、一家の組長たちの名前たちが刻まれている。

 小次郎の島での功績は認めつつも、こうした組織の「開祖」という一面も否定はできない。もちろん幕末の侠客・博徒と現在のヤクザはイコールではないだろうし、小次郎の想いとも異なるのかもしれない。また、ヤクザを生み出す社会、ヤクザを必要とし、利用する社会構造等々・・・・いろいろと考えると・・・・。
 どんな環境でもめげず、周囲の人たちや地域にも目配りを忘れなかった小次郎“先輩”。人間的には魅力的で、会えばファンになってしまうような人物だと思うが、それだけに小次郎さんをめぐる悩ましい”ちい散歩”であった。

by wamploo | 2010-05-29 23:38 | History of Miyakejim
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噴火から10年、帰島から5年、火山ガス「噴出ヤメッ!」とは、なかなかならない三宅島に、元気を取り戻してもらえるように、写真を中心に、テキト~に文章まき散らし、テキトーに規則正しく綴っていければと・・・
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